最大の通俗は、いちばん純粋である

横光利一 純粋小説論
http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2152_6546.html


id:rakka:20041201さんとこで見かけた「四人称」でぐぐってみたら、こんなのが釣れちゃいました。
横光利一とは、どうも冷静な判断力と的確な展望を持っていた人物のようで、上の文章には現在でも通じる部分が数多くあります。是非一読を。


大雑把に横光利一の言う「四人称」を示すなら、それは「自意識の視点」ということになります。一人の人間が生物としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼とを持っていて、その個人を見る眼によって様々な価値観が揺れ動く。ではその魅力的な素材を書かぬわけにはいくまい、その際使われるべきは「四人称」という視点だ。強引ながら、こんな論旨です。


個人的には、この横光による「四人称」という呼び名は、誤解を招くので相応しくないとおもいますね。例えば1・2・3人称は、順々に対象の数が増えていくわけですから、本来なら「4人称」になった場合はheまたはthey以上の多さを持つ対象でないとなりません。つまり目に見えないところにいる彼ら、「誰か(anyone)」であり、その「誰か」の集合たる「一般」こそ「4人称」と呼ばれるべきものだというのが自然です。


横光による「四人称」は、1人称の奥底にいる1人称なのですから、本来なら「零人称」と言うべきだったのです。




文化と精神の成熟が進み、横光が「四人称」たる自意識を取り上げざるを得なかったように、この先の成熟度によって我々も「5人称6人称」を作り上げざるを得なくなるかもしれません。5-1人称とか5-3人称とかもありそうですね。


[閑話]
カミュの「異邦人」は、横光のいう四人称を奇抜な手法で成立させたとも言えます。その手法とは「不条理」。つまり、読者側に「本来あるべき主人公の内面」を想像・補完させておいて、文章では不条理を用いた「主人公の自意識」を読ませる。読者が不条理だと感じる主人公の内面は、そのまま、読者の想像(補完)と実際の文章の差なのです。
横光利一が「異邦人」を読んでいたら何と言ったのでしょうかね。